まずい!何か爆発したぞ…航空墜落事故、9歳男の子が一人で耐えた…

2017年11月16日

1985年8月12日、日本航空123便墜落事故から31年。未だに忘れられない被害者の家族の方々の中で・・

今回は9歳の息子を亡くした母親が綴った手記をご紹介します。


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日本航空123便墜落事故

1985年8月12日お盆のラッシュの時期に起こった、日本航空123便墜落事故の記憶はまだ生々しく筆者の脳裏に焼き付いています。

乗員乗客524名のうち死亡者数は520名で航空事故の中でも世界最多だったそうです。

坂本九さんなどを始めとした著名人を含む多くの犠牲者も出し、ニュースで知った人々の心にも深い傷を残した日航機墜落事故。

まして大切な家族を亡くしたご遺族はなおさら、今も当時の惨状を忘れられない現実があります。

原因は飛行機の製造元の整備不良?


【出典:http://heaaart.com/post/180485

事故が起きたのは、 日本航空のジャンボジェット123便、東京~大阪間のまさかの定期便
でした。

18時に羽田を離陸し、18時56分には大阪に到着する予定だった123便が、なぜ墜落してしまったのか?

現在分かっている墜落の原因は・・・機内の気圧を一定にするための圧力隔壁が壊れたことだと言われています。

実は、この事故の7年前に「しりもち事故」を起こした際、製造メーカーの『ボーイング社』に修理に出したことがありました。

その時の圧力隔壁の修理方法が、不適切な方法だったことが発覚したそう。

この調査報告がされた後も、多くの遺族が墜落原因の詳細な再調査を求めてきました。

しかし、それ以降再調査は現在まで行われていません。

飛行機内の生の声

墜落手の機内の様子はどんな感じだったのでしょうか?

乗客が飛行機内で 走り書きした手記を2本ご覧ください・

村上良平さん(43)
 千葉県柏市。富士電機サービス課。社名入り封筒に。

機体が大きく左右にゆれている
18・30 急に降下中水平ヒコーしている
日本航空18・00大阪行事故

死ぬかもしれない 村上良平
みんな元気でくらして下さい。
さようなら 須美子 みき 恭子 賢太郎

18・45 機体は水平で安定して酸素が少ない気分が悪るい

機内よりがんばろうの声がする
機体がどうなったかのかわからない

18・46 着陸が心配だ

スチュワーデスは冷せいだ

白井まり子 さん(26)
 大阪府豊中市。日本航空大阪支店。フライト時刻表の余白
に、24字。
恐い
恐い
恐い
助けて
気もちが悪い
死にたくない
まり子

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9歳の息子を亡くした母親の手記

そんな日航機墜落事故で9歳の次男坊君である「健ちゃん」も死亡しました。

彼は甲子園で応援したいためにおじさんの家に向かうところで、初めての一人旅
での事故・・

その「健ちゃん」を亡くしたお母さんの手記をご紹介したいと思います。

健ちゃん、ごめんね、
健ちゃんの一生で一番、恐ろしい時に、ママがそばにいなくて、
どんなに恐ろしかったことか、
健ちゃんは、きっと
ママ!ママ!
と、叫んだことでしょう、
そんな時に独りにしてごめんね。

夏の高校野球で、憧れのPL学園を応援したいからって、
伊丹の叔父さんに頼んで「チビッコVIP」で、初めて飛行機に乗ったのね。

あの日、羽田空港で、健ちゃんをスチュワーデスの方に託し、
「じゃあいってらっしゃい」
と云った時、何かはにかむようにママを見上げたまなざしは、
今も瞼にやきついて、忘れられません。

夕空に消えていく飛行機を見送り、
家に帰った途端、テレビで健ちゃんの乗った飛行機がレーダーから消えたと云ったんです。

そんなはずはないと、ママは何度も打ち消しました。

けれど、飛行機が山の中へ落ちたと聞いて、
ママは、パパと一緒にリュックサックに、健ちゃんの着替えやスニーカー、雨ガッパ、缶ジュースなどを入れて、
すぐに現地にむかいました。

せっかく現地まで駆けつけたのに、警察が一般の登山を禁止していました。

でも、二日たっても健ちゃんが見つからず、
きっと谷底か、どこかで助けを待っているのだろうと思うとたまらなくなって、

パパとママは警察の目を盗んで、親切な猟友会の方にお願いして、急傾斜の山を這うように夢中で登りました。

屋根に近づくと、大きな樹がなぎ倒され、飛行機はばらばらに散らばって燃えていました。

そこから先は、警察や自衛隊の人がびっしりしていて登れません。
錯乱し、黒く焦げた機体を見て、さすがに健ちゃんが生きているという望みの糸が切れました。

「熱かっただろうね、どんなに心細かっただろうに、連れて帰れなくてごめんね。」
と云い、近くに燻っている機体に、健ちゃんの好きなジュースをかけて、急かされて降りました。

それから健ちゃんを見つけるために遺体安置所の棺の列を探し廻りました。

やっと「チビッコVIP」のワッペンと、小さなイボのある右手だけが見つかりましたが、
頭、同、左手、足もありません。

でも「やっと会えた、ママは、健ちゃんといつも一緒だよ。一人にさせないよ」
と思わず、小さな手に頬ずりをしました。

健ちゃん、あなたのお葬式は、小さな手だけがおさめられた、
あまりにも広く軽い棺でした。

肉親の遺体の一片さえもみつからない人の事を思えばと、
一時は我慢しようと思いましたが、やはり健ちゃんの遺体の一部なら、
どんな形でも連れて帰りたい。

明日からまた群馬に出かけて、野球が大好きだった健ちゃんが天国でもできるように
未確認の遺体の中から右手と足を探します。

その時、ソックスを持っていきたいけれど、セーターや下着が入っているタンスを開けるのが怖い、
健ちゃんの匂いと声がするようだから・・・。

健ちゃんを失ってから、幸せというものがどんな身近で、かけがえのないものであったかを改めて悟りました。

中3のお兄ちゃんは、
「弟の分まで頑張るよ」と云いながら、今でも夜中ふと眼をさまし

「健ともう1度喧嘩したい。なぜ、健は死んだのか、悔しい」
と涙を流しています。

パパはいつも黙っていますがお酒を飲んで帰ってきては、独りじぃっと健ちゃんの写真が飾ってあるお仏壇の前で泣いています。

健ちゃんは9年間という約束で、パパとママのところへ来たんだね。
そしてママにいろいろなことを教えて、残してくれたね。
どうもありがとう。

ママは、健ちゃんとの楽しかった思い出をしっかり胸にしまって、
いつまでも、大きくならない健ちゃんを一生抱えていきます。

来年になったら、健ちゃんの好きな大きな鯉のぼりをもって
山に参ります。

もう怖くなんかないよ、ね?

静かな語り口の中に、行き所のない息子を亡くした母親の悲痛の叫びを感じます。

胸が張り裂けそうとは、まさにこんなことをいうのでしょうね・・

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